2015年11月30日月曜日

輪廻転生について考える

35歳や40歳を過ぎて、子供を持たない、子供ができなかった選択をしたときに、感じるある種の虚無感というか、老後に関する不安などについて

子供時代から子供がほしいという気持ちは全くなかったし、未だにない。試みたこともあったが、成果がなかったし、不妊治療をするほどほしくもなかった。忙しかったこともあるし、生きていてよかったと思うことは、食べるものがおいしかったり、ネットゲームができたことくらいかな。生きていて苦しいと思うことも多いので、そんな世の中に子供がほしいとも思わないというのもある。

愛別離苦の考えからすると、子を持たないという選択もまたありではないかと思う。 愛が必要ないとは思わないが、執着はもたないほうがいいと思う。それはそれでむずかしい。

資本主義の世の中では、とにかく他人より多く持つこと、もたないことは敗者。ゲームもとにかくスコアをあげ、ひとより多く持つことが勝利のなか。リアルに何も持たないもの、持たないことを恐れないものが現われ始めた。蔑称でもあるが、ニートだ。ニートの持つ意味からすると、あまりほめられたものではないが、今日は輪廻転生について、ネット上で調べていたところ、私たちの住む「此岸(ひがん)」から「彼岸(ひがん)欲や煩悩から解放された世界」 にたどりつくためには、まずすべてを捨てよ、から入るのです。すべてを捨てることがむずかしいから、「大乗仏教」が生まれたのです。

すべてを捨てることが難しい、つまり何ももっていないと感じることを恥じる必要はないのです。何ももっていないことを恥じる必要はないが、生き方は恥じるべきです。六波羅蜜の考え方から

  1. 布施波羅蜜(ふせ) 布施をすること
     
  2. 持戒波羅蜜(じかい) 戒律を持って生きること
     
  3. 忍辱波羅蜜(にんにく) 堪え忍ぶこと
     
  4. 精進波羅蜜(しょうじん) 努力すること
     
  5. 禅定波羅蜜(ぜんじょう) 座禅すること
     
  6. 智慧波羅蜜(ちえ) 前五つの波羅蜜の実践によって得られる智慧のことです。


座禅をすることでしか得られなかったことが、ネトゲを延々と何万時間も同じ場所に座りながらしたことで得られているのではないかと、思うこともあるのです。ネトゲをほとんどしていない今でも、寝る前に「そろそろ眠るな」とわかるような、夢の入り口をみることがあります。これが、毎日感じるようになってきています。

あとは生き方の問題ではないか。奉仕する心を持ち、他人や社会のために尽くす。暴力的なものや排他的なものはよくないと思います。殺戮がいいわけがありません。

輪廻転生があるのかないのか、考えてもしょうがないことです。しょうがないと思っていても、考えることはよくあります。何ももっていないことを恥じる必要はなく、「彼岸」に至るために、努力する。

輪廻転生があったとしてもなかったとしても、彼岸があったとしてもなかったとしても、生まれた以上、いつかは死ぬのは生物として必定なのだから、ちょっとでも可能性や希望のある生き方をするのがいいと思う。


今週もロト7を買いました。生活のための労働から解放されたいです(本音)ただし、今もっている衣料品なんかでも、「自分はこれ1つもつくることができないな」「これ1つ作る苦労で、他のことをしたらもっと稼げるだろうな」とは思うのです。だから社会の一員として、自分の出来ることをしていく。他人の労働に感謝する。こういう気持ちはあります。

何も持たないことを恥じる必要はないけれど、何もしないことについては恥じるべきだと思います。


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