2016年9月9日金曜日

「じいさんには世話になった」と言うときに思い出すこと

死んだ爺さんには大変お世話になった
誕生日のときに、ファミコンソフトを3本も買ってもらっていた
爺さんは正確な人で、欲しいソフトをきちんと書いておくと必ず手に入れてくれた
ドラクエ3も予約して発売日に買ってくれた
そのときはもうゲームが1本5000円以上したと思うけれど
小学生の高学年のときの何回だったけれど、そんなわがままを
そのまま受け止めてくれたことを感謝している

それにいつも運動会にもきてくれて、走るのがおそくても
後ろから数えたら一等だなんて言ってくれる人だった


ゲームに関してはサンタクロースは全然だめだった
「アイスクライマー」ときちんと書いておいたにも関わらず
「結局南極大冒険」が枕元にある始末だった
これは友達に貸してなくしてしまったらしく
代わりに「忍者じゃじゃまる君」をもらった


3~4年ごとに引っ越しているが、ファミコンソフトは使わないが捨てないで持っている

物より思い出なんて言った時代もあったが
物を通じての思い出もなかなかいいものだ

ゲームをなくしてしまった友達は誕生日が1日違いだった



家庭に問題があり、不登校で、上履きももたず裸足だった
そういうことは衣服などをみればわかることで
誰も何も言わなかったし、いじめるひともいなかった

小学校の教師はひとりで一日教えるので、救いがない
教師の裁量で子供は不幸になる
不登校気味の友達は、毎日先生に追い回され、
最初おばあちゃんの家に逃げていたが、
そこにも勝手に熱心な教師が授業もせずに
教室に生徒をほおって訪ねてくるので
彼は公園に隠れていたりしていた

彼が気の毒なので、だれも責めなかったしいじめもしなかった
学校にくればふつうに接していた

私もその熱心な教師に、因縁をつけられていびられたことがあったが
クラスメイトが私に嫌味をいったりすることはなかった
むしろ気遣ってくれたくらいだった

その教師はろくにまともな授業もしなかったが
公立学校に嫌気がさした者が多かったのか
私立中学進学者が一番多いクラスになった

半年ほどたったころ
子供だったので、教師にいびられたことが本当に嫌で
あいつをころして自分も死のうと思ったことがある
母親にも学校に行きたくないといったが、御覧の通り通じる相手ではないので
あと半年なので我慢して行けと言われただけだった

その日一日は絶望して
想像のなかで殺してみたが
そんなクソ野郎のために自分の人生が台無しになることが惜しくなり
一日で気持ちを切り替えて
不服従だけで半年を乗り切った
卒業式が終わったら速攻帰った

不服従といっても、問題行動を起こすわけではなく
心の中で侮蔑をもって接するだけだ

このことに関しては、いまだに恨みに思っているし
しかしいつかは手放さなければならない念であるとも自覚している

この時から母親に対して信頼をなくしてしまったし
世の中に受け入れられないさみしさを持ってしまった

教師が作ったオリジナル連絡帳に親の返信欄の記入がないという指摘が一番苦労した
親は第一子目の人ほど下の子に興味がないのと
小学6年生にもなると、そんなに関心がなかったりする
親が忙しくて書いてくれないというと
「見ました」だけでいいから書いてもらえと言われる(親の宿題か)
それで残りの半年間は毎日「見ました」と書いてもらったが
BBA「めんどくさいから一週間先まで書いていい?」という人だった
こちらは、生きるか死ぬかまで考えたのだから
この温度差には参ってしまった

当時はまだ専業主婦の家庭も多く
母親が働いているほうがめずらしかったので
熱心な教師からすると、考えられないことかもしれない
ただ、「見ました」と毎日書いてもらうことが本当に大変だった
せめて捺印だけなら、自分でしたろうが、自分で書いたらおそらく因縁をつけられただろう

家庭の問題にまで、小学校教師が立ち入るべきではないと大人になってから思う







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